2018年5月4日金曜日

第201夜 調教師の統計的研究(1)序

▼無駄口叩いていい?
一応前振りのつもりだが、当節があまりに長いのでお断りしておきたい。
本題は次節からである。
読み飛ばしてくれと言いたいが、そうすると記事の半分以上を読まないことになるので(笑)お付き合い願えれば。

このブログでは従来の教条主義的な血統理論が理論として体をなさないこと(再現性がないこと)、生物学的にも誤っていることなどを再三指摘している。
そもそも信頼すべき血統書そのものに看過できない数多くの誤りが判明しており、これを元に理論を構築するというアプローチ自体が問題である。
もちろん、ロマンとか、素養としてサラブレッドの成り立ち、競馬の成り立ちを識ることは、わたしの考えではとても大切なことであるが、これを馬券検討に持ち込むことが「大丈夫?」と言いたいのだ。
遺伝子や血液の情報の多くを封じられた中で、あれこれ推測したり想像したりするのは楽しい。
だが、こと馬券検討に関しては、血統理論は使いものにはならない。
情報不足に加え、統計的手法を用いない曖昧な推定や他の要素をあまり参考にしない点など、血統理論は本気で黒字収支を目指す者が使える代物ではないと思っている。
「ロマンはロマン、馬券は馬券」で別物である。

脱線ついでに、血統好きの書物やブログ記事を見ていて「ブラッドスポーツ」と連呼するものを見かけることにも触れておきたい。
「ブラッドスポーツと言われるように、血統は重要です」というものだ。
わたしの認識が誤っていたら申し訳ないが、「ブラッドスポーツ」とは狩のような、意訳すれば「血生臭いスポーツ」ということばではないだろうか。
血統のスポーツを訳した結果なのかもしれないが、血統書のスポーツという意味ではなさそうだ。
以前から気になっていた。
ちょっと違和感はある。

古典的な血統理論で解決できていないいくつかの問題には、全兄弟問題(父母が同じでなぜ成績が大きく違うのか)などがある。
しかし、わたしはそれ以上に、育成の差や調教師の成績の差といった後天的な力を説明できないことを問題視している。
説明できないというよりほとんど無視されているのではないかと思うほど言及されない。
まるで、生まれたときからダービーを勝つことが宿命付けられているかのようで、血統がすべてと言わんばかりだ。
サラブレッドはそんな簡単なものではないだろう。

人間に当てはめても分かるが、能力を全部出し切るような人はほとんどいない。
天賦の才に差は多少なりともあるのは否定しないけれど、能力を引き出す力は後天的なもので周囲の環境の影響を受ける。
悲しいことにわたしたちは天賦の才の差に多くを帰せたいが、現実は努力や環境の差であることを薄々知っている。
競走馬の場合も、調教師の差は大きいように思う。
良血馬であろうがそうでなかろうが、調教師の腕によってオープン馬にまで出世したり、未勝利のまま終わったりする。
天賦の才に恵まれた馬は人間同様一握りであり、ほとんどの馬は「ふつう」である。
これら大多数の馬に、どうやって1勝でも多く勝たせられるか、1円でも多く賞金を稼がせられるか、は調教師の育成方法、レース選びにかかってくるのではないか。
厩務員、調教師、騎手といった人間の影響は少なくないのである。
せめて調教師の研究はしておくべきだとわたしは思う。
無駄話が過ぎたが、いよいよ本題である。

▼調教師の研究
レースへの影響度を統計学的に調べてみると(数量化Ⅰ類、ダミー変数を用いた重回帰分析。厳密な数学と違い恣意性はある)、騎手に迫るほど、調教師の影響は大きい。
この文は読み飛ばしてもらって結構だが、賞金を目的変数とし、騎手・調教師をそれぞれ説明変数ひとつで分析すると、騎手は0.18、調教師は0.17であった(2006-2014年平地競走完走馬43万件を用いた分析)。
調教師を予想の材料にしている人は少なくないと思うが、騎手との相性程度に留めているようなら勿体無い話だと個人的には思ってしまう。
ぜひ、騎手と同じくらい重視してもらいたいと思う。
もちろん、調教師一人ずつ特徴を研究することも良いだろうが、このブログでは「全体としての傾向」を探究する。
すべてのものは永遠ではなく、常に変化していくものだ。
ある調教師の今の姿を永遠と考えないで、1歳年をとると成績がどのような変化するか予測できる力がほしいのである。

ただ、騎手ならキャリア、肉体から「年齢」のようなカテゴリーを作りやすいのに対して、調教師は区分が難しい。
カテゴリーを作るのは、この間でみても600人以上の調教師がおり、いくつかの集団に分けないと傾向がわからない。
騎手の場合、年齢でみると能力は緩やかに成長し、ある程度のところでピークアウトする曲線を描く。
騎手はデビュー年齢がだいたい同じで、年齢とキャリアがほぼ一致している。
これに対して調教師は社会人のファーストキャリアでない場合が多い。
スタート年齢が違うため、年齢と厩舎開業以降の経験年数がバラバラである。
背景(騎手上がり、調教助手上がりなど)もさまざまで、上手く整理できない。

それでも、調教師の年齢は調教師になる年齢の幅広さを考えると難しい問題なのだが、ある程度傾向がある。
とりあえず50人ほどの調教師の成績を年齢別にプロットすると、45歳から50歳前後が平地競走の勝率のピークになっていた(あくまでも少ないサンプル数での推定である。研究を通じて結論が変わる場合がある)。
脂の乗った時期とでも言おうか、なるほど、と思う年齢である。
有力な馬主との関係の構築、相馬眼、厩舎の経営など、体力気力経験とも充実している年齢である。
アスリートは20歳代後半がひとつのピークだが、肉体年齢のピークは20歳頃も遅れてピークを迎える能力や精神的な成長などからこのようになる。
調教師も同様に精神的な影響が大きいのだろう。
換言すれば、経験年数とは別に年齢による能力の変化があるということだ。
調教師の能力とは、馬主との関係の構築、良い馬をどう厩舎に入れるか、厩舎所属者の統率と分配、業務の回し方、騎手や出走競走の選択など多岐にわたる。
アスリートに比べてピーク年齢が高くなることは総合力が問われるからだと言える。

これから何回かにわたり、調教師の分析をしていく。
ネットでいろいろ調べてみたけれど、わたしのような分析をしているものは見かけなかった。
面白いものになれば幸いである。
ただ、ひとつだけお断りしておきたい。
騎手などと違い、調教師は個人を分析するのではない。
正しくは「厩舎」である。
調教師をトップとするチームの勝利力を分析するのである。
敢えて調教師に紐付けるなら「経営力」としても良かろう。
年齢を調べたのは、調教師の経営手腕に年齢という要素が関わると考えたからである。
詳細は次の夜に申し上げたい。
(SiriusA+B)

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