▼競馬の常識は勝利に繋がらない
今回はうだうだと書く。
仕事でいろいろ思うことがあって、多くの人にとり柔軟な発想というものの難しさを感じる毎日である。
ふと遠い目をしながら、競馬でも同じだなぁ、と思う。
スポーツ選手などのプロフェッショナルな人が常識や平均的なものから大きく乖離していることを感じ取ることは難しいのかもしれない。
だが、日常生活でも仕事でも同じで、皆と同じ動き方をしていると平均かそれより少し下の世界に生きることになるように思う。
その理由は簡単だと思っている。
ラクな方を選び続け、結果として思考能力が減退するからである。
人間はラクな方を選ぶ性向がある。
大多数はラクな方を選ぶので、ラクな方はほぼ平均に近づく選択である。
一方、プロはすべて才能によって台頭してきたわけではない。
努力によってであり、努力量が突出しているからである。
だが、努力している姿を見せてくれるプロフェッショナルは少ない。
だから、どのくらい努力しているのか、知らない(或いは理解しようとしない)人はいる。
「誰でも簡単に儲けることができる」ということばを真に受けていまいか、ちょっと心配になる。
平均より大幅に上回る才能か努力、時間などによって初めて「勝つ」ことができるのだ。
努力から目を逸らさないでほしい。
常識も「多数派」の論理である。
平均的な世界へ導く強い力だ。
わたしは、競馬(馬券)に勝つこととは平均との乖離と同義である、と言い切ってもいいとさえ思っている。
他人様の著したものを見て「重要です」とあれば「重要ではない」と置き換えて考えたり、「簡単に」とあれば「難しいかも」と疑ったりする。
教条的な記述もどうかと思うが、さらにそれを鵜呑みにする人もいよう。
「では、どういうものが重要でないのですか」と問われたら「全部です」とわたしは答える。
走破タイムも血統も展開も騎手も馬も前走も、すべて重要ではない可能性がある。
これらは平均・多数派に誘う要素であり、少なくとも平均的な世界から脱出できるものかどうか、今一度丹念に検証してほしいと思う。
▼柔軟な発想
平均と乖離するいまひとつの方法は、他者にない発想である。
突拍子もないと思われることであっても、検証の結果、実用性の高いものが見つかることはある。
例えば地震と太陽活動の関係のように、意外な相関関係というものが見つかる可能性は少なくない。
以前、netkeibaのお気に入り登録数を予想に活かす例を示したけれど、そういう意外なものでも(直接関係ないが)相関性があったりするものだ。
非常識だとか、馬を見て予想するのが王道だなどというほうが、わたしからみれば教条的である気がする。
わたしは、公式に発表されていないデータから、勝ち馬に繋がる情報を類推することもある。
馬の遺伝子はもちろんだが、血液型、体高、入厩までの馬体重、外厩の調教、レース前半の走破タイム(専門紙には独自計測を記載するものもある)、中間(レースとレースの間)の健康状態など、未発表の中にはレースに大きな影響を及ぼす仕組みが隠されているかもしれない。
仮に体高が鍵を握るということが分かったなら、どうにかして体高やそれに代わるデータを探して回る。
情報の多くは探せば入手できる時代になった。
以前は情報の入手自体に躍起になる時代だった。
時は移り、わたしたちは、溢れかえる断片的で多少精度の低い情報の海にいる。
マスメディア中心の時代には情報の精度は高く信頼のおけるものだったが、誰でも発信できる今は読者自身が頭の中で補ったり訂正したりして利用するのが一般的であると思う。
ここから拾い集め、データに成形し、選択し、分析をする作業力が問われるようになっている。
オールドファンこそこの事実を意識してほしいと思う。
(SiriusA+B)