2023年11月26日日曜日

第443夜 符号で考える人


▼画像データとテキストデータ
最初に将棋の話である。
わたしは駒の動かし方くらいしか知らないことを予めお断りしておく。
藤井聡太先生や羽生善治先生に共通したものに「符号で考える」というものがある。
わたしは、プロの棋士というのはすべからく頭の中に盤面を思い浮かべ、差し手を考えていると考えていた。
大方の人もわたしと同じように考えているだろう。
それが、「符号で考える」と言うのだ。
ここで言う符号とは、「9四歩」のようなものを指す。
これは将棋の腕に覚えのある人、棋士、女流棋士、アマなどでも驚くという。
実際、わたしがネット中継のライブで観た藤井聡太先生のトークショーでも、女流棋士の方が驚いていた。
必ずしも棋士の誰もが符号で考えているのではないらしい。
実は、わたしもかなり驚いた。

棋士の先生方の思考には、関心を抱く人もいて、ちょっとした調査や研究が為されている。
思い浮かべる将棋盤や駒の色・形に始まり、脳神経の研究なども、要旨ならネットで分かる。
今も同じか分からないが、同様に符号で考える人でもある羽生善治先生に関する、幾つかの昔の記事によれば「盤面は白、線は黒。駒は漢字ひと文字」らしい。
藤井聡太先生には脳内に盤面が無いという衝撃的な報じ方も見かけるが、実際のところは「ほとんど脳内盤面を用いない」ではないだろうか。

脳内盤面を用いないで符号で考える、というのは、コンピュータと同じで、画像データよりテキストデータのほうが軽くて処理が速いということを意味する。
そのぶん、より多くの処理をしたり、試行錯誤を繰り返せたりする。

符号で考えることは特殊なようだが、この能力は、突出したふたりの天才棋士だけに与えられた特権ではないようだ。
「符号で考える」というのを、算盤(そろばん)に例える人もいる。
かなり上の技術者であれば脳内で算盤をパチパチしないらしい。
画像で考える方式では計算速度に追いつかないそうである。
これは、訓練で習得できるもののようなので、わたしたちも諦める必要はなさそうだ。
何を諦めるのかって?
もちろん競馬の話である。

秘密にしておきたかったので、このブログで公開していなかったのだが、わたしは日常的に「成績表の文字情報で考える」研鑽を重ねてきた。
馬柱ではなく、成績表である。
ほぼ毎日のように、1日に数レース、多いときなら100レース近く、成績表を眺めて次走につながりそうな情報や期待馬探し訓練をやっている。
仕事や家庭のことで忙しく長期に渡って中断した期間も何度かあるが、20世紀末には今の原型となる成績表の見方を始めていた。
動機は、当時はテレビのダイジェストくらいしか映像が入手できなかったからである。
午後のレース中継とダイジェストだけ。
しかも、東西どちらかだけで、ゴール前の直線がちょろっと映されるだけだった。
この当時の情報量は、
 成績表 > 映像(部分的な)
だったのだ。

▼成績表
能力値のような類はパソコンで計算すれば出てくるから、そういう作業は別にする。
もっと直感的なものである。
主催者のものでも何でも見慣れた成績表で構わないが、資料にある情報を脳内で総合する。
レース条件を手始めに、枠順、人気、馬齢、通過順位、馬体重と増減、斤量、着順など記載されている数字に加え、性別、騎手や厩舎など文字情報、貴方が参照するものによっては調教、出遅れ、斜行、レース後コメントなどが加えられる。
そうそう、走破タイムはあまり見ないが、速いか遅いかのざっくりした判断や、着差、上がり3ハロンは見る。
これらを総合して次走以降の期待馬を考えるのだ。

先日行なわれたレースなら、来週以降の予想に使うが、少し前のレース結果であれば、当該馬の次走成績が分かるので、訓練には適している。
例えば1年くらい前のレース結果を見て「もしかして、2番手を進んで3着に粘った馬は次で結果を出すんじゃないの?」などぶつぶつ言いながら、その馬の次走結果を見てみるのである。
法則めいたことがあれば、パソコンで似た例を集めて検証する(大抵はハズレである)
こういう研究も、量をこなせば「訓練」と言っていいだろう。
どれくらいの数のレース結果を見てきたか分からないが、1年分の平地競走でも3,300レース以上ある。

見方を変えて繰り返し同じレースも見るから、サンプルは無限に存在するかのようだ。
この作業を繰り返すことにより、成績表を見ると「だいたい」次走以降の期待馬が分かるようになってくる。
「あー、この馬、いずれ勝ち上がりそう」などと、何となく感じるのだ。

文字情報だけだと脳味噌への負荷も抑制される。
天才棋士たちは、棋譜の研究で脳内盤面を用いていないかもしれない。
眼前に盤があるときはいいのだが、符号読みなら、風呂の中、新幹線の中、寝床の中でも研究できるのだ。

それで実績をあげているのなら、わたしの幻想ではないだろう。
感覚的な話で嘘のようだが、実際にやってみれば分かる。
と言っても、万単位のレース数をこなすことになると思うので何年か掛かると思うが。
「次走の競走条件が分からないと予想のしようがない」という人は、この手の訓練をしたことがない人である。
次走の条件など、その競走馬の関係者が考え抜いて出走させるのだ、基本的に無考慮でいい。

▼映像
「レースも見ないで、成績表だけで何が分かると言うのだ」
と言う人はいるだろう。
だが、成績表だけで予想することができないわけではない。

馬を見ないで予想できるわけがなかろう、とか、単勝は一点買いが王道だ、とか、先入観に囚われなければご理解いただけると思う。
それどころか、ほとんどの人は「馬柱に記載されたレースすべてを映像で確認した」ことなどないし、パドックや返し馬に不要論を唱えて(実際に有効かどうかは別として)、馬を見ない。
わたしに言わせれば「いちいち馬を見ないと予想できないの?」と反問になってしまう。

それでも、である。
成績表では捕捉できない情報が映像にはある。
成績表はよくできていて、レース結果を余すところなく再現しているように思えるが、表上で欠落している箇所がある。
成績表と印象が異なるだけでなく、欠けた部分を補完する。
馬というかレースを見る眼はこの両輪である。

ダラダラ、長々と書いたが、要するに、成績表と映像は情報源だが、成績表はいちいち脳内で映像に変換しないで考える力を養いたい、ということだ。
(SiriusA+B)

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