2019年10月27日日曜日

第256夜 競走馬を育てる競走馬


▼遺伝率
人間ほど詳しい情報はないので、人間の遺伝学の知見を拾い読みしている。
このような分野とは無縁の生活でも、素人にも噛み砕いて教えてくれるものはたいへんありがたいと思う。
何でもかんでも父母から半分ずつ遺伝するものではないことくらい分かっているつもりだったが、拾い読みするだけでも「初めて知った」ということが多くて嬉しい。

例えば「遺伝率」というものがある。
ある表現型を遺伝要因と環境要因に分割したとき、遺伝で説明できる割合をいうそうだ。
統計的なもので、個体ごとの遺伝割合を示すわけではないが、「どの遺伝子がどのように作用するかは分からないけれど、親と一定の割合で同じ率」ということなのだろう。
サラブレッドに置き換えて考えたとき、先天的なものと育成調教で得られるものをなんとなく想像しやすくなる(気がする)

人間の場合、非常に大雑把に言って、知力は6割から8割は遺伝要因だそうだ。
集中力なども遺伝率が高いと言われる。
体力はそうでもないようで、馬も人間と同じならこの辺りが調教師の腕の見せどころなのだろうと思う。
他方、体型は遺伝率が高いようだ。
体高とか脚の長さである。
馬でも購入に際して外形で判断される場合が多いように思うが、それもそのはずだと納得してしまう。

詳しく調べたわけではないけれど、わたしは心臓の大きさとか鼻の穴の大きさ()は競走能力と密接に関連していると思っている。
どちらも遺伝率が高そうに思うのだが、わたしには調べたり検証したりする情報や術が無く、残念である。

▼人間だけではない後天的教育
前項でお話したとおり、先天的な能力だけではなく後天的に、すなわち経験や学習によって習得する能力はあるようだ。
競走馬は生産育成牧場、調教師をはじめとする厩舎スタッフ、騎手たちによって経験を積んでいく。
この後天的な成長割合はそれほど小さくないだろうと思っている。

だが、ことばの通じない馬を馴致することは難しいだろうと思う。
人間の意思を伝えるのはもちろん、馬が人間に意思表示することも困難を極める。
厩務員でさえ、すべてを察することはできないのだ。
しかし、すべてを人間が教えると考えるとたいへんなのだが、先輩馬たちがわたしたちには分からないことばや仕草で教えているとしたらどうだろう。
そう、遠征時の帯同馬や馬場入場時の誘導馬が気持ちを落ち着かせたり、馬を導いてくれている。
野生では集団生活を送るのが馬の習性である。
年長馬が若馬に教えることはあると思われる。
それが優れた馬であれば教わる内容も良いのではないだろうか。
調教師藤澤和雄先生の著作に、ガルダンという馬のエピソードが語られている。
若馬たちがオープン馬の先導で歩き、所作を見習う。

このエピソードが好きで繰り返し読んだが、優秀な馬たちが近くにいること自体も成績向上に結びつくのではないかと考えるようになった。
姿勢とか気持ちの持ちようが伝播するのではないか、と。

調教師、助手、厩務員の力量と不可分で解析は難しいが、オープン馬を抱えている厩舎の所属馬は成績が良い可能性がある。
わたしは今、検証方法を考えている。
馬による馬の教育割合は決して小さくないと信じている。
(SiriusA+B)

2019年10月21日月曜日

第255夜 予想技術の変化

▼力業の時代
今夜もうだうだと書く。

素数は無限にあると予想されているが、発見するには容易でない作業がある。
ところが、今の時代はコンピュータを使用して力業で発見することができるようになった。
コンピュータは人間に代わり、大量の計算を、正確に、人間より速く、することができる。
力尽くで剛腕な印象さえあり、手作業を丁寧な仕事と尊ぶ人ならば感傷的になってしまうほどである。
だが、冷静に見て、膨大な計算作業の代行は数多くのメリットをもたらすのも事実だ。

技術の進歩により世界が大きく進化することはこれまでもあった。
蒸気機関や電気はもちろん、重機、農機、冷蔵庫洗濯機テレビ、エアコンなどの家電は、生活を一変させてきた。
コンピュータも同様にさまざまな分野での進化に貢献している。
知的作業では、知識量や計算能力を問われるレベルから、情報量を確保し加工してどう判断するかが問われるレベルに変わりつつある。
極端に言えば、より高度な能力で勝ち負けを競う、差がつく時代になり、「とにかく丸暗記していればなんとかなる」といった情報量で勝負してきた層が知的階層から脱落するのである。
もちろん情報量や知識量、計算能力が軽んじられてはならない。
情報の整理活用知識や計算結果の推論が必要である。
分析可能な情報量を確保した上で、さらに帰納的に考える能力などが重要になったといったほうが分かりやすいかもしれない。

ところが競馬予想の技術は相変わらずで、時折「AI予想」などということばに右往左往する程度のようである。
コンピュータが未発達だった頃は、統計学では如何に少ないサンプルや計算量で結論を導き出すか、に力が注がれてきたのだが、競馬予想でもこの考えから脱却できずにいるように思う。
日本ダービーを予想するのに「過去10年のダービー」を参考にすることが未だ主流である。
今や年間で延べ4万頭前後の出走馬をすべて調べられるのに、ほんの僅かなデータだけで推理しようとする。
血統理論は更に遺伝学さえ取り込んでおらずオカルトの領域であり続けている。

推理小説で例えれば、探偵役が「彼が犯人だ」と叫ぶまでの工程に似ている。
ちょっとした証拠から推理するのである。
だが、今なら、警察が周辺の防犯カメラの記録を片っ端から集めて全部調べる。
溢れるほど情報があるので証拠集めに労力を割くのだ。
そして大量の情報を短時間で処理する技術も発達した。
もちろん、大量の証拠を矛盾なく繋ぎ合わせ、犯人を絞り込むには一流の探偵が要る。
競馬の予想でも同じである。

今や過去10年分の全レースを使い、勝利の方程式を探す時代になっているのに、多くの予想者がそこまでの労力を費やしていないように感じる。
相変わらず非常に少ない情報で、古典的な名探偵のように名推理を試みようとする。
情報は洪水のようにあるのに、だ。
そもそも一流の探偵でもないのに、だ。

▼「個」の分析から属性分析へ
情報量が増えたことで、わたしたちも変化しなければならない。
大量の情報を活かすには発想の転換をはかる必要があるように思う。
このブログで繰り返し述べているように、馬個体毎の分析ではなく、要素に分解し分析する手法を勧めている。
大量の情報を活かすように予想方法を変えなければならないと思うのだ。
A騎手」をそのままで使用せず、「20歳代後半」「年間騎乗数500以上1,000未満」「栗東所属」「1レースあたりの平均獲得賞金上位10%」などと分解するのである。
それぞれを集計するというのが手法だ。
これを再合成する過程で数学的技術が必要だが、また分解できなかった「残差」の処理をどうするかも技術が必要だが、知識がない人でも実用に耐え得る程度にはなる。
だが、わたしが周囲を見る限り、問題はそれ以前にふたつあるようだ。
先ず、「力業」でデータを集めていない。
「努力はしているんだけれど」という人は、概して「思っている以上に努力していない」というのがわたしの印象である。
忙しいなど言い訳が立ち、夜更かししてでもデータを集めるというような努力が見られない。
情報はレース成績データだけではない。
馬の購買価格、購買状況、育成牧場など直結する情報のほか、気温、湿度といった天候などたくさんある。
不要かどうかは先ず集めて試していく作業を繰り返すのである。
多くは徒労であって、その過程の労を惜しむのはあまり賛成しない。

次に、データを加工する技術が不足している。
このブログでは走破タイムを速度、時速60km/hなどと変換するが、表計算ソフト上でこの作業ができないという人は少なくない。

わたしはこれらを批判しているのではない。
競馬予想をする母集団にはこのような人がそれなりにいるので今が好機と言いたいのである。
誰もが手軽に、AIを簡単に用いることができるアプリケーションは、それほど遠くない時期に登場しよう。
それまでが勝負である。
アプリが登場すればまた別のステージでの闘いになる。
それまでに、急ぎ、データを集め、情報の加工スキルを磨きたいと思う。
(SiriusA+B)

2019年10月13日日曜日

第254夜 直接対戦成績の統計を取れば分かるかもしれないこと


直接対戦成績
A
という馬とBという馬が何度か同じレースに出走した場合、対戦成績はどうなるのか。
ご存知のとおり、この集計は困難な作業である。
近いうちにトライしてみたいが、今のところは手を出せずにいる。
量が多い
target
では比較的簡単に出せるらしいし、例えば専門紙競馬ブックは重賞や特別競走で対戦成績を掲載している。
これを自力でやろうと思っていること自体がおかしいのかもしれない。

だが、どう集計するかは凡そ決めてある。
同世代、牡牝別である。
同じ年の生まれで牡なら牡同士、牝なら牝同士で調べるつもりだ。
性別は何となくお分かりいただけると思う。
同世代同士だけというのは少し補足が必要かもしれない。
理由は簡単で、馬にはデビューから成長期、ピークに達したあと衰えを見せ始める。
1
年上、1年下とはピークがずれており、後進がやがて先輩を追い越していくため、いつ対戦したのかによって修正をしなければならないからである。
「異性、異世代との闘いが除かれた分析で良いのか」という異議は出るかもしれないが、分析の目的は対戦成績の傾向、つまり、Aという馬は何度対戦してもBという馬に負けないのか調べることにある。
上手くできるなら、同時に異性や異世代の影響まで調べ上げたいが、実際には難しいだろうと考えてのことである。
馬齢による斤量差を考えればご理解いただけるかもしれない。
同性同世代は強さ以外に斤量差はない。

結果が出れば分かること
調べもしないでいうのもおかしいが、2種類の結果が予想され、その結果次第で分かるだろうことが決まってくると思う。
2
種類の結果とは以下の想定である。
(1)
何度対戦しても概ね同じ結果になることが多い(A馬はB馬に先着する)
(2)
勝ち負けは伯仲し、レースによってどのようにでもなる(A馬とB馬どちらが強いか断定できない)

先ず(1)の結果であった場合を考察する。
一度順位付けができてしまうと、極端に競走条件や鞍上が異ならなければ、成長、適性、展開の比重は高いものではないと推論できる。
過去の競走成績を注意深く見て逆転可能な要素はないか、よく考えればよいということになる。
逆転可能な要素とは、中間の状態、例えば怪我や病気、外厩などでの調教強化、斤量の大きな変更、騎手乗り替わり、芝ダートなどである。
半面、馬の基本的能力が競走成績に及ぼす影響は大きいと言え、血統評価(ヘンな血統理論でなくて)、馬体評価の比重を高めるべきであると思われる。

では(2)の結果の場合はどうだろうか。
この場合は(1)とほぼ反対になる。
競走馬の成績は後天的なもので、調教やコースの巧拙、そしてレース展開、ちょっとしたアヤで勝負はどう転ぶか分からないということだ。
ある意味、血統などはどうでもよく、環境や臨戦態勢を重視する予想スタイルが良いということになる。

皆さんはどちらの結果になると思われるだろう。
わたしも分からないが、調教による差は大きいとは思えど、(1)であってほしいと願う。
(2)
だと偶然性が強すぎて名馬を皆が強いと思わなくなるからである。
予想のしようもないし。
(SiriusA+B)

2019年10月6日日曜日

第253夜 非常識な発想で平均との乖離を図ることは有効


競馬の常識は勝利に繋がらない
今回はうだうだと書く。

仕事でいろいろ思うことがあって、多くの人にとり柔軟な発想というものの難しさを感じる毎日である。
ふと遠い目をしながら、競馬でも同じだなぁ、と思う。
スポーツ選手などのプロフェッショナルな人が常識や平均的なものから大きく乖離していることを感じ取ることは難しいのかもしれない。
だが、日常生活でも仕事でも同じで、皆と同じ動き方をしていると平均かそれより少し下の世界に生きることになるように思う。

その理由は簡単だと思っている。
ラクな方を選び続け、結果として思考能力が減退するからである。
人間はラクな方を選ぶ性向がある。
大多数はラクな方を選ぶので、ラクな方はほぼ平均に近づく選択である。
一方、プロはすべて才能によって台頭してきたわけではない。
努力によってであり、努力量が突出しているからである。
だが、努力している姿を見せてくれるプロフェッショナルは少ない。
だから、どのくらい努力しているのか、知らない(或いは理解しようとしない)人はいる。
「誰でも簡単に儲けることができる」ということばを真に受けていまいか、ちょっと心配になる。
平均より大幅に上回る才能か努力、時間などによって初めて「勝つ」ことができるのだ。
努力から目を逸らさないでほしい。

常識も「多数派」の論理である。
平均的な世界へ導く強い力だ。
わたしは、競馬(馬券)に勝つこととは平均との乖離と同義である、と言い切ってもいいとさえ思っている。
他人様の著したものを見て「重要です」とあれば「重要ではない」と置き換えて考えたり、「簡単に」とあれば「難しいかも」と疑ったりする。
教条的な記述もどうかと思うが、さらにそれを鵜呑みにする人もいよう。
「では、どういうものが重要でないのですか」と問われたら「全部です」とわたしは答える。
走破タイムも血統も展開も騎手も馬も前走も、すべて重要ではない可能性がある。
これらは平均・多数派に誘う要素であり、少なくとも平均的な世界から脱出できるものかどうか、今一度丹念に検証してほしいと思う。

柔軟な発想
平均と乖離するいまひとつの方法は、他者にない発想である。
突拍子もないと思われることであっても、検証の結果、実用性の高いものが見つかることはある。
例えば地震と太陽活動の関係のように、意外な相関関係というものが見つかる可能性は少なくない。
以前、netkeibaのお気に入り登録数を予想に活かす例を示したけれど、そういう意外なものでも(直接関係ないが)相関性があったりするものだ。
非常識だとか、馬を見て予想するのが王道だなどというほうが、わたしからみれば教条的である気がする。

わたしは、公式に発表されていないデータから、勝ち馬に繋がる情報を類推することもある。
馬の遺伝子はもちろんだが、血液型、体高、入厩までの馬体重、外厩の調教、レース前半の走破タイム(専門紙には独自計測を記載するものもある)、中間(レースとレースの間)の健康状態など、未発表の中にはレースに大きな影響を及ぼす仕組みが隠されているかもしれない。
仮に体高が鍵を握るということが分かったなら、どうにかして体高やそれに代わるデータを探して回る。
情報の多くは探せば入手できる時代になった。
以前は情報の入手自体に躍起になる時代だった。
時は移り、わたしたちは、溢れかえる断片的で多少精度の低い情報の海にいる。
マスメディア中心の時代には情報の精度は高く信頼のおけるものだったが、誰でも発信できる今は読者自身が頭の中で補ったり訂正したりして利用するのが一般的であると思う。
ここから拾い集め、データに成形し、選択し、分析をする作業力が問われるようになっている。
オールドファンこそこの事実を意識してほしいと思う。
(SiriusA+B)

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