2016年10月30日日曜日
第124夜 いよいよ母馬の研究を始めようと思う――1990年生繁殖牝馬の「同窓会」(1)
▼繁殖牝馬と仔の関係
世界でさまざまな研究報告があり、一概に言えないが、父馬と母馬の仔への影響力では母馬が上回っているようだ。
いずれDNA、mtDNA(ミトコンドリアDNA)の研究によってもう少し明らかになるだろうが、今夜の記事から何回かに分けて、今でも統計的に推測できるものを提供したい。
わたしひとりがデータを集めるため、サンプル数は少なくなる。
信用に値するほどのデータ量ではないが、ちょっとした参考資料程度にはなるかと思う。
サンプルは、1990年生まれの繁殖牝馬670頭である。
データ収集に限界があるので、同一年生まれで揃えることにした。
国内に限ったが、それでも地方出身馬770頭までは調べられなかった。
1990年生まれを選んだのは、現在からみれば繁殖活動もすでに終了しており、データが確定しているからである。
仔についてもほとんどの馬が現役を引退しているが、ごく一部で現役競走馬もおり、それについては集計時点の実績を用いている。
もうひとつ、彼女らのクラシック戦線は1993年であった。
この年はバブル経済が崩壊して間もなかったが、中央競馬はまだ前年を上回る勢いで人気だった時代である。
牡馬では、ナリタタイシン、ウイニングチケット、ビワハヤヒデの3強が3冠を分け合い、盛り上がっていた。
柴田政人騎手がウイニングチケットで悲願の日本ダービーを制し「世界中のホースマンに、わたしが第60回日本ダービーを勝った柴田政人です、と言いたい」と勝利インタビューで語った。
牝馬戦線でも、エリザベス女王杯で本命ベガを押さえ伏兵ホクトベガが優勝し、中継のテレビアナウンサーが「ベガはベガでもホクトベガ」の名台詞を残した。
古馬ではトウカイテイオーが有馬記念を制し「奇跡の復活」と言われた。
そんな時代だったから、馬名も比較的記憶されているように思うのでこの年にした。
今夜はプロローグとして、特に目立った牝馬について競走成績を紹介する。
さまざまな分析結果は次の夜からご紹介するが、統計的にお話しするため個々の馬に触れる機会は今夜だけである。
▼活躍した1990年生まれの牝馬
ノースフライトは、3歳の5月1日に未出走戦でデビューした。
桜花賞はすでに終わっており、オークスも間に合う時期を逃していた。
遅咲きだったが、10月に府中牝馬ステークス(東京芝1600m)を格上挑戦して勝ち、G1競走エリザベス女王杯(当時は現在の秋華賞と同様の出走条件。京都芝2400m)で2着に食い込んだ。
古馬になってからはマイル路線で牡馬一線級と互角に戦った。
サクラバクシンオーとは、3度対戦し、中距離路線で話題を提供した。
春はG1安田記念(東京芝1600m)で勝利し、秋はG2スワンステークス(阪神芝1400m)で敗れたものの、G1マイルチャンピオンシップ(京都芝1600m)では勝利した。
ワコーチカコも古馬になって活躍した。
脚部不安や故障により、3歳(当時の旧表記では4歳)時はオークス出走くらいで目立たなかったが、古馬になってからはG3エプソムカップ(東京芝1800m)、オープン特別の道新杯(札幌芝1800m)、G3函館記念(札幌芝2000m)と3連勝、秋冬は振るわなかったが、翌年1995年にG3金杯(京都芝2000m)、G2京都記念(京都芝2200m)を勝って引退した。
ユキノビジンは、地方競馬の出身である。
中央競馬に転厩し、G3クロッカスステークス(中山芝1600m)を9番人気で勝ち、クラシック戦線に名乗り出た。
G1桜花賞(阪神芝1600m)、G1オークス(東京芝2400m)ではいずれもベガの2着に敗れた。
秋にはG3クイーンステークス(中山芝2000m)で復帰勝利したものの、G1エリザベス女王杯(当時は現在の秋華賞と同様の出走条件。京都芝2400m)は10着に終わった。
その後オープン競走のターコイズステークス(中山芝1800m)を勝利して引退した。
サクラバクシンオーとともに、当時の人気種牡馬の一頭であるサクラユタカオーの代表産駒である。
ホクトベガは、G1エリザベス女王杯(京都芝2400m)を人気薄で制し、その後ダート戦線に転じた珍しい経歴である。
翌年1994年のG2札幌記念(札幌芝2000m)を勝利したあとは、ダート競馬に活路を見いだしていく。
1995年には地方重賞のエンプレス杯(川崎)を制した。
翌1996年は地方重賞の川崎記念を勝ち、ここから連勝街道を走る。
当時はG2だったフェブラリーステークス(東京ダート1600m)、以降地方重賞のダイオライト記念、群馬記念、帝王賞、2度目のエンプレス杯、南部杯まで勝ち続けた。
いずれもダート競走だったが、この後、浦和記念、2度目の川崎記念と地方重賞を勝利するも、芝競走ーーこの1996年から古馬にも開放されたG1エリザベス女王杯(京都芝2400m)、G1有馬記念(中山芝2500m)は勝てなかった。
1997年4月、ドバイに遠征、第2回ドバイワールドカップ競走に出走したが、最終コーナーで窪みに脚を取られて転倒、予後不良となった。
生前は人気馬で、中央競馬のG1馬が現れるとあって、地方競馬場には多くの人が詰めかけた。
帝王賞のあった日の大井競馬場の入場者記録は2016年現在も破られていない。
ベガは、3歳(当時の旧表記では4歳)の1月にデビューした。
初戦の新馬戦は2着に敗れたが、2戦目の新馬戦(当時は同一開催中は新馬戦に出走できた)に勝利した。
次戦の、当時はオープン競走だったチューリップ賞を勝って、G1桜花賞(阪神芝1600m)、G1オークス(東京芝2400m)を制した。
その後は勝利できず、翌1994年のG1宝塚記念を最後に引退した。
ウイニングチケットとともに新進種牡馬トニービンの初年度産駒であり、代表産駒となった。
余談だが、ブライアンズタイム、サンデーサイレンスの初年度産駒は次の1991年生まれからである。
種牡馬ノーザンテースト、リアルシャダイの時代が終わろうとしていた。
(SiriusA+B)