▼「未来はわからない」ということをいつも心に
データベースを作り、それなりに的中するようになると、神の領域にでも近づいたかという錯覚に陥る人がいる。
忘れないようにしてほしいことは、未来はわからないということだ。
スピード指数にせよ、統計学の道具を持ち出すにせよ、過去のデータをもとに推測しているだけであって、わたしたちは未来が見えているわけではない。
過去の情報から確率の高い事象を選んでいるに過ぎないのである。
だが、数字は絶対ではないからと言って、人の判断が良いのかというと、それも違う。
主観的な人間の判断より数字のほうが予測は当たりやすい。
理由は簡単である。
数字ならぶれないからだ。
そして、わたしたち人間には予知能力がないからだ。
▼数字で予想することは難しくない
データを使って馬券検討するのは、思い込みに囚われないようにするためだった人も少なくないのではないだろうか。
数字にすると、数字の大小で選択しやすくできるということだ。
コンピュータがそれほど発達していなかった時代、感心させられた知り合いがいた。
レースを見て、5点満点で評価するというものである。
競馬新聞に赤ペンでいろいろ記入してレースに臨むわたしたちと違い、そのひとはレース後にあれこれ書き込んでいた。
わたしたちはせいぜい着順を書き込むくらいしかしない。
そのひとはすべての馬ではないが、気になった馬を評価していたようだ。
メモを転記したノートを持っていようには見えなかった。
ただ、家の押入れには大量の競馬新聞があるんだ、とよく話していた。
予想するときには古い新聞を引っ張り出していたのかもしれない。
土日を競馬で費やす人だったが、生で見られないときも何らかの形でメモをとっていたのだろう。
予想は前走評価の数字を書き込んでスタートしていたと思う。
例えば、前走で4点評価の馬が複数いたりすれば、時間もかかっただろうが、多くの競走ですぐに軸馬を決めることができただろう。
数字で書いてあるのだから、判断が速いのだ。
だからこそ、関東12競走と関西主要3競走(当時は東西ですべての競走を買うことができなかった)を予想しても、徹夜明けみたいなわたしたちを、涼しげな顔をして集合場所で待っていたのだろう。
頭のいい人で、収支は聞けなかったが黒字だったろうと思っている。
タイム分析などが苦手の人でも、表計算ソフトが苦手な人でも、こうした予想法ならすぐにでもできるのではないだろうか。
今なら、すべての競走をテレビで見ることができ、録画して繰り返して研究することすらできる。
慣れてくれば、次第に評価方法も一定になってゆき、あまりぶれなくなるだろう。
わたしは、こんなひとを知っているものだから、「この馬で鉄板だ」とか、「前走で不良馬場も得意だとわかった」とか、競馬場で耳に入ってくる会話は思い込みだなあ、と感じることが多い。
もちろん思い込みが悪いわけではない。
理屈を超えた直観力は軽視できない。
ただ、長い目でみると収支を黒字にするのは難しいだろうなと思うだけである。
人間は欲望というフィルタによって、客観的な判断ができなくなる。
これが「ぶれる」ということだ。
これが「ぶれる」ということだ。
自分は大丈夫だと思う人もいるだろうが、思い込みは案外日常よくやっている。
「さて、競馬予想では展開を読むことが重要です」なんて書いてあっても、信じていないだろうか。
「絶対」「必要」「重要」などというフレーズをみかけたら、先ずは疑ってみたほうがいいだろう。
でも、データに基づいているからといってすべて的中するわけではない。
数字を使っていても、データ処理そのものも主観によっているし、あくまでも過去から推測するだけなのだ。
そこをわかってほしいのである。
余談だが、わたしが1レースあたりの最大の配当金を得たのは、万馬券を的中したときではない。
若気の至りで単勝1点勝負に出たときである。
当時のわたしとしてはかなり思い切った大金(といっても1万円)を賭けたのだが、緊張したために隣の馬番をマークしてしまった。
気付かないまま購入してしまい、半泣きになったのだが、その馬が勝ったのである。
嘘のようなホントの話である。
今でもこの配当金を上回ったことはない。
根拠などなくても「勝てば官軍」なのである。
ただし、ラッキーは続くわけではなく、そのために数字で予想しようと考えているのだ。
(SiriusA+B)